STAFFスタッフ

器用か不器用かと言われれば不器用かな?。でもね、自分の存在とは何か?向き合いながら人生を歩んでいます。(ちょっと何言ってるかよくわかんないけど)

私の半生記をお読みくだされば幸いです。


 

遠藤紀幸(えんどうのりゆき)

1967年(昭和42年)4月18日生まれ  牡羊座 ひつじ年のB型(B型を嫌いにならないでね)。

 

現在埼玉県越谷市に在住、家族は妻、実母と3人暮らし

 

たくさんの病気を患いながらも懸命に生きている頑張り屋の母と、明るい妻に支えられています。

この2人のおかげで自分は頑張れているようなものです。

 

東京都品川区戸越で3人兄弟の2番目に生まれる

上と下は女で真ん中で一人男

続柄は長男ですが、感覚としては次男坊

自由に生きたいタイプですが、長男という肩書から自由にならない部分もあり、その辺は少し歯がゆいかな?

 

姉は頭が良くしっかり者、妹は愛されるキャラクター、自分はその二人の間や家族間の調和を取り持つバランサーのような感じ。

 

自然に家族間でも学校でも、協調性を取ろうと目立つような行動はしない。でも肝心なところで発言するようなタイプでした。

 

人前ではあまり喜怒哀楽を出さず、本当は色々発言もしたいし目立ちたいし、内に秘めたタイプ。

 

周りから「おとなしいね、優しいね」と言われていたのですが、うまく自分の気持や考えを伝えることは照れくさく、結構損な性格でもあります。

 

ただ、感情が溜まりすぎると爆発しちゃうから、その辺は注意が必要ですね。

 

男一人だったこともあり、女の兄弟とはあまり遊ばず一人で何かを考えたり、一人で遊んでいましたが、小さい頃から何かに興味を持つとすぐに行動し、飽きるまでやるのが好きだったようです。

 

一生何かの研究をするような仕事が向いているんじゃないかと、漠然と思っていたわけです。

 

もちろん友達とも遊びましたが、自分の気分が乗らないとさっさと帰ってしまったり、そのへんは自由人だったようです。

 

 

 


経歴:幼少期

当時のヒーローはウルトラセブン。小さいながらもあの大人びたストーリーが好きでした。今見ても色あせないですね。

当然の事ながら、特撮ものやアニメは一通り見ました。あの頃は何を見ても面白くていい時代でした。

ウルトラマンや怪獣のソフビ人形は沢山持っていましたが、今残っていたら貴重なお宝になっていたかも?

 

幼稚園時代

4歳を境に身長も体重もぐんぐん増加していき、活発に動くようになりましたが、砂遊びや絵を描くのが好きで、友達とウルトラマンや仮面ライダーの絵を書いて、どっちがうまいか競争していましたが、どっちがうまいかで喧嘩したこともありました。

また、このころは何人かの子を泣かしたりしていた記憶もあります。(いじめっ子?ではないと思います)

 

また帰りのバスが遅くて待ちきれず、勝手に歩いて帰ってしまったこともありました。(こういった決断や行動は早い)

その後親や先生にこっぴどく怒られた事は言うまでもありません。

 

小学校時代(怪我ばっかりの低学年時代)

昭和49年草加市内の小学校に入学。

昭和55年卒業

 

小学校入学から1週間もしない頃、雨の日に休み時間に教室を走りまわっていて滑って転び、机の角におでこを思い切りぶつけ、「パッカーン」と切れてしまい大出血!!数鍼縫う事に。教室の床が血に染まり、大騒動になってしまったことや、

2年生の秋、栃木県那須に家族で紅葉を見に行き、山頂から下る際に何を思ったのか走りだし、勢いが付いて止まらなくなり前のめりで転倒。左手首を骨折し前腕の骨が曲がってしまうという大けがを負う。

ハイキングは中止、その後整形外科で曲がった骨を整復するのですが、その時の痛さったらもう・・・・。まだ記憶に残っています(今でも左手の動きはあまり良くない)。

 

当時の通信簿には落ち着きがないという事を良く書かれていました(本当は違うのに(泣)・・・)。

 

4年生から少年野球のチームに入る。

練習で良く怒られていたので、嫌気がさして休みがち。でも試合に出ると結果を出すという、素質だけでやっていた感じです。また怒られるという恐怖感から、緊張しすぎてボールが投げられない、暴投するなど、いわゆるイップスを小学生で経験。

 

4年生から5年生の時、一年間で身長が10センチ程伸びて、成長痛で膝が痛くなったり、腰を痛めたり結構怪我や痛みに悩まされていました。

 

良く接骨院に通って治療してもらいましたが、これが今の仕事への原体験と思います。

 

身体のわりに短距離を走るのはまあまあ早かったです。ただし長距離は本当に苦手で、体調が悪いと言って逃れたこともあります。(w)

 

6年の頃には身長が160cmを超え、体重も70kgほどあり、この先もまだまだ成長するものと思っていました。このままいったら相撲部屋直交か?と言うぐらいでした。

 

中学生時代

中学生から春日部市のマンモス団地、武里団地に引っ越す。

その学区内の中学校に入学。

色々な期待を胸にわくわくしながら通学したのを覚えていますが、特に部活で活躍するとか、勉強ができるとかそんなことは一切なく、普通に仲のいい友達同士で、毎日を過ごしたり遊びに行ったりして3年間あっという間に終わってしまいました。

 

一応野球部に入るも、この頃すでに野球への情熱は無くなり1年で挫折。あくまでも楽しんでやりたい派だったので、どうも型にはまった事が好きではなく、そういった事も部活を辞めた一つの要因。しばらくテレビで野球を見るのも嫌でした。

 

小さいころから興味がない事は真剣になれない性格でして、できる教科とできない教科の差が激しかったです。

 

当時はMANZAIブームで、ツービートが大好き。

ビートたけしは本当に天才だと思いました。深夜のオールナイトニッポンは眠気と必死に戦い聴いていました。

あとはプロレス。何と言っても新日本プロレスが良かったですね。

 

アイドル全盛期で、松田聖子をはじめ中森明菜や小泉今日子など大勢のアイドルが活躍していました。

好きだったのはキョンキョンと河合奈保子で、河合奈保子のコンサートに行ったこともありました(親衛隊ではありません)。

 

 

高校時代

県立の男女共学の高校に入学。

当時はツッパリや校内暴力全盛期。

周りはパンチパーマにエナメルの先が尖った靴の同級生が多く、他校の生徒と喧嘩は日常茶飯事。

 

自分はそういったのとは無縁だったので、至って普通。別にワルになりたいとも思わなかったし、つるむのが嫌いだったので・・・。

 

武道をやってみたいと思い、柔道部に入部。いきなり始めて大丈夫か?と周りも自分も思っていましたが、何か夢中になれることがしたいと思って、思い切って始めました。

全然強くはなれませんでしたが、でもやっておいて良かったと思ってます。

 

高校生で完全に身長が止まってしまい、164cmで終了。結構これコンプレックス・・・。

 

3年生の時には並ぶ順番がとうとう一番前に!

並び順が一番後ろと、一番前を経験した人はそうはいないのではないかと思っています。

 

当時洋楽が人気で、特にヘビーメタルやハードロックに目覚め、エレキギターが欲しくて仕方ありませんでした。

 

それまではニューミュージックが好きでアコースティックギターで松山千春やアリスなんかを弾いていました。

 

それまでロックなんて全く無縁だったのに、

ロック好きにさせたとんでもないバンドのせいです!!

 

高3になってお年玉でやっとエレキギターを買い、必ず誰もが一度は演奏する曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が弾けた時は嬉しかった!

それから私のロックギター人生が始まり、今に至ってます。

 

当時感銘を受けた映画

松本清張原作の「砂の器」

文化祭で上映していたのですが、俳優の演技、映像、音楽全てにおいて感動し、その後も何度観ても感動で涙が溢れてしまいます。

 

個人的に邦画では一番だと思っています。

 

大人の真似事がしたい、また周りの影響で○○や○○〇を陰でたしなんでいました。

 

読書が好きな友人が、大人が聴くような渋い音楽を聴いていたのに影響を受け、音楽を流し○○スキーを飲みながら小説を読むといった事もやっていました。でも当時は美味しさなんて全く分からず、吐き気と苦しさで辛い事しかなかったですね。(なにやってんだか)

 

今はそんなことしたら大変な時代になってしまいましたが・・・・・。

 

 

 

自分は何者なんだ?自分の存在とは?悩んだ青春期

高校3年になり進学するのか就職するのかで悩み

その当時自分がどんな仕事に就きたいのか?

将来の夢は何なのか?

全く考えられませんでした。でも漠然とではありましたが、東洋医学に興味があって鍼灸師や柔道整復師になりたいという考えもあり、鍼灸の専門学校を受験しましたが不合格。

 

なりたいとは思っていても、本気で勉強もしていなかったし、よく内情を知らなかったので受かる訳がない。

 

結局就職もせず、進学もせず卒業式を迎える。

 

 

会社員時代

その後大手流通小売業グループの総合スーパーにパートで働くようになり、担当は商品管理。

 

とにかく親にも職場の上司にも認めてもらおうと頑張っていた所、正社員にしてやると当時の店長に言われ、一応試験と面接を受けた後、食品事業部の精肉部担当ということでそれから約20年間勤務。別に配属先はどこでも良く、こだわりはありませんでした。

 

仕事に関しては、入社してからの2年間は失敗続きで上司に怒られてばかり・・・。

 

お前なんかやめちまえ!!

何回言われたことか。

 

当時は言われれば反発もしましたし、ふてくされた態度をとったこともあります。

でも、当時の上司は自分を見捨てずに育ててくれて、何とか自分を使えるようにしてくれました。今でもその上司の事は忘れられません。

その甲斐あって、新店舗のスタッフとして抜擢され異動することができたのはいい思い出です。

 

この時に一つの仕事を本気で取り組む事の大事さを学んだのかもしれません。

 

一生懸命やってれば結果が付いてくる、そう思えました。

 

しかしながらその上司とも離れ、いろいろ理不尽な事を経験していく中で、性格上曲がったことが嫌いで、上司であっても納得が行かない場合は反発。「扱いにくい人物」と見られていました。

 

仕事はそこそこやるので尚更ですね。

 

なんかサラリーマン向いてないな・・・。

と思い始めたのもこの頃でした。

 

甘えてるの?って言われるかもしれませんが、向いていないものは仕方がない。

 

もう少し大人になれないものかと、俺はおかしいのかとそれはそれで悩みましたが、性格だからしょうがない。

 

 

ただ職場では、部門の従業員の信頼があり、頼りがいがある親分肌ということだったようです。

 

 

それまでの正義感や頑固さも、妻と知り合い結婚する頃から現在にかけて徐々に変わって行ったと思います。

 

時代の流れで世の中や物事が複雑化していく中で、自分の未熟さや知識の無さを知り、それから性格的にも変わっていけたのかもしれません。

 

 

妻は私が詳しくない分野のこと、特に経済や歴史に詳しく、その影響で徐々に覚えていったようです。妻の影響はかなり大きいです。

 

結婚後、仕事も任され指導する立場になり、仕事の充実度が上がってきた時の事。

 

ショッキングな出来事がありました。

 

丁度その頃私と妻は、自分の仕事の関係で横浜にいたんです。

 

3月のお彼岸の頃でした。

母からの電話があり

 

「お父さんが脳梗塞に・・・」。

今入院しているとの連絡が。

 

相当重症との事で、かなり気が動転した事を

今でも覚えています。

 

本当はそのお彼岸の時期に、両親と私の姉弟家族とで旅行に行くはずだったのです。

 

旅行は当然キャンセルに、明くる日にすぐに父が入院している病院に駆けつけました。

 

入院時にカテーテルで血管を広げる手術をしましたが、頸動脈の狭窄がかなりあったために、残念な結果となってしまいました。

 

多発性脳梗塞

左半身麻痺

言語野に障害

嚥下障害

 

言葉も片言しか喋れなくなり、尿失禁などの後遺症もあるという、変わり果てた状態になっていました。

 

ただ、顔を見れば誰かという判断は付くのでそれだけは救いかと。

 

そうなると、父の介護をするのに、母一人では大変ということもあり、実家に戻してもらうよう会社に頼み、実家に近い店への配属となりました。

 

休みの日は父を定期的に病院に連れて行くなどし、それ以外は時折父をショートステイなどで施設にお願いするなどしながら、数年間が経ちました。

 

この頃、近隣のエリア内での勤務の場合は給料も減り、それにプラスして40歳以上の早期退職を会社が打ち出していたので、仕事のモチベーションはかなり低下していました。

 

このまま会社に残っても・・・。

不安だけが着いてまわり

 

 

私達夫婦の元に子供はいませんでしたが、もしこれから子供ができて、まだ子供が小さかったら仕事はやめられないし・・・。

 

など結構悩んだ頃でもありましたが、自分の気持が低下してしまい、考え込んだりふさぎ込んだり、酒や煙草の量も増え、かなり精神的に参っていた頃でした。

 

 

整体師の道を志す、現場での臨床経験

結果的にこのまま会社に居続けても展望が見えないと判断し、元々独立したいという思いもあったので、妻に相談し20年務めていた会社を退職し、思い切って以前から興味があった整体師を目指すことになります。

 

整体のスクールに入ってからは、派遣社員で働きながら、行ける時間に整体の技術や体の構造、生理学を学んでいきましたが、技術や知識よりも一番大事なものである、整体師あるいは治療家としての心構えをしっかりと叩き込まれました。

 

民間のスクールでは珍しいほどカリキュラムが多く、途中で止める生徒も出るほどの厳しさでした。

特に基本の技術に関しては徹底して教えられました。

一度基本の技術がある程度覚えられた段階で、基本修了試験というものがあるのですが、自分はわかったつもりになっていたことを講師の先生に見透かされ不合格になったことがあります。

 

一回落ちた事で、より真剣にやろうと心に火が付いて以来、基本術をより大事にしています。私の原点であり主要な技術です。

 

 

1コマ2時間の授業で基本・応用・実践と段階を経て講師に認められてから資格認定の試験を受け、合格した者が付属院のインターンとして勤務することができます。

 

卒業後は学校が運営する直営院の店舗責任者や副院長を経験し、当時低迷していた来院数をアップさせるなどの実績を残す。

 

「整体師は誰でも今日からでも名乗ればできる」と揶揄されることがあるのですが、そんな甘い世界ではありません。きっちり段階を踏んで現場に出ています。

 

 

国家資格を持たない整体師が認められるには

安全を常に意識する事

高い技術を持つこと

信頼を得る事

以外に無いと思っています。

 

民間の資格であるからこそ、より安全性が求められます。

 

研鑽を積むために整骨院に勤務

3年後、さらに重い疾患をお持ちの方に対応をするため、地元の整骨院で約5年半いろいろな症状の患者様の対応をしていきました。

 

多いときには1日30人以上の患者さんを施術したことも。

 

開業までに延べ3万人ほど施術させていただき、技術のレベルアップや経営の方法などを勉強していきました。

 

 

自分を成長させるために、違った環境に身を置いて本当に良かったと思います。

 

院長はじめスタッフの先生、受付の方本当にいい仲間と出会い、いい環境で仕事出来たことは、生涯忘れることはありません。

 

やめる日が近づくと、仲間との別れが辛くて思わず涙が・・・・。

 

最後の日は多くの患者さんからプレゼントや餞の言葉を頂き、本当に嬉しかった。今後の私の活躍で恩返し出来ればと思っています。

 

職場を離れるのは辛かったけど、自分で決めた道だから進むしかないですよね。

 

思い出の数々を噛み締めながら、開業に向け進んでいきました。

 

東京銀座に開業

2018年1月に、銀座駅から徒歩2分の好立地、みゆき通り沿いのビルの中で開業。

 

ビル内にはネイルサロンやエステサロン、美容クリニック、内科、歯科などが入った健康や美に関する店舗が入っており、その一角のシェアルームにて営業を開始しました。

 

 

6畳一間の小さな整体院でしたが、それでも銀座でできるという喜びのほうが大きかったです。

(神田川か?)

 

オープンして5日目に初めての患者さんが来院。その時の嬉しさは、今でも忘れることができません。

自分の力で初めてクライアント様が呼べた!!

 

銀座や田園調布、中目黒などポスティングをしていたので、東京の街にも詳しくなりました。

 

都会だからチラシの反応は無いかと思いきや、ネットから予約された方よりも、チラシを見て予約された方のほうが多かったのが意外でした。

 

来院された方の中には有名な経営者の方もおり、何度もアメリカからの出張の帰りには必ず寄って頂けました。その方は当時70歳を超えていらっしゃいましたが、すごいバイタリティの持ち主です。

 

自分もこのように成りたいと思わせる素敵な方です。

 

なんかうまくいかないなあ・・・。挫折から学んだもの、再出発

開業から半年、売上は思うように上がず・・・。経費ばかりがかさみ、これ以上の継続は困難と判断し、今一度勉強し直そうと思い、撤退を決意しました。理想と現実のギャップがあまりにも大きかった・・・・。

 

店を畳む悔しさ等様々な感情がありましたが、悲しんでいる間もなく、撤退後に働き口を探さないといけません。店舗をオープンさせるのにお金使っちゃいましたから。

 

どうしようか考えていたところ、知人に介護の仕事を進められ、デイケアサービスで介護職員として半年間勤務することになりました。

 

正直結構大変でした。だって全く未経験だし、それに人の命を扱う仕事でもありますから。

 

利用者様への対応を一歩間違えたら直接命にかかわる事になるので、そこに従事している方は本当に尊敬します。

 

でもごめんなさい、自分は何か夢中にはなれなかった。

 

介護職は素晴らしい仕事ですが、そこに情熱を注ぐ事はできませんでした。

 

日に日に整体への思いは募る一方になり、またチャンスがあれば、再出発したいと考えるようになりました。仕事が休みの日に、知り合いに出張で施術をしていましたが、やっぱり本格的にやりたいという気持ちは常にありました。

 

 

自分はやっぱり整体が好きなんだ!!

もう一度立ち上がりたい!

 

 

改めて強く思い、勤めていた介護施設を退職し、今まで自分に足りなかったものを学び直していきながら、今に至っています。

 

この間の1年でまた学び、成長させてくれたと思っていますし、自分を支えてくれる人の存在に、本当に感謝しています。

 

世の為人の為、家族の為、そして自分が成長するため、整体師という仕事を一生の仕事として続けていくため、患者様に喜んでいただくための勉強に終わりはありませんので、毎日が勉強です。

 

自分はこうありたい

私には輝かしい経歴も、ずば抜けた才能もありません。多くの失敗や困難な目に合ったこともあります。本当に不器用な生き方だと思います。

 

自分の人生を真剣に悩み、苦しみ、行動して切り開いてきました。

それが出来る環境があるということは、とても幸せだと思っています。

 

こんな事絶対に一人じゃできない。本当に家族だったり、自分と関わってきた人だったり、そういう人との繋がりで生きてるんだと、そういった経験が出来ること、そのものが幸せです。

 

数々の失敗や挫折をしてきましたが、人の心の痛みはわかっているつもりですし、その苦しみは人それぞれだと思います。

 

でも、ただ単に同情するのではなく、少しでも前向きに頑張っていけるように励ましていきたいです。そのために力になれることは惜しまずに協力していきたいです。

 

整体を40歳で始めて今現在まで、自分が本気で向き合える仕事に出会うことができました。

 

困っている人に喜んで頂ける仕事、自分が一生かけて続けられる仕事が整体師としての仕事です。

 

未だ世間的に正しく評価されない仕事ではありますが、地道に真っ当に取り組んで行くことで評価を得たいと思います。

 

 

一人でも多くの方に、老若男女問わず安心して施術を受けていただき、日常生活をエンジョイすることが可能となるような未来つくりを提案、実証していくことこそが私の使命と思っています。

 

整体の有効性を多くの方々に理解されるよう、一人一人出会った方に全力で対応させていただきます。

こんな私ですがよろしくお願いいたします。

 

 

私のプロフィールを大公開しちゃいました。本当に不器用でしょ!

 

それは私だって落ち込む事もありますが、基本的に暗い性格ではないし、たまに悲観的なことも言いながら「何とかなるさ」と楽観的でもあります。今までそうやって乗り越えてきました。

 

 

そんな頑張ってきた自分を素直に褒めたいと思ってます。不器用な生き方も自分そのものだから受け入れてます。

 

 

私のプロフィールを読んで、「ダメダメですねー!」ってバカにしても良いですし、「私のほうがもっと壮絶な人生歩んでる!」など比較して頂いてもいいですし、その辺はおまかせします。

 

 

更に進化するために、Tri&Errorでこれからもやっていきます。

 

挑戦し続ける限り成長だ!!

そう思いながら日々取り組んでいます。

 

 

こんな長文をお読み下さった方、本当にありがとうございました。